原発の問題

原発のようなシロモノを、そもそも民間企業は保有してはならない。原発のように、一旦事故が起こったときに被害が天文学的数字になり、また、放射能汚染によって国家の存立に影響するようなシロモノは、民間企業が手を出してはいけないのである。

なぜか、というと、まず、「外部性」の問題がある。原発事故では国民に天文学的な被害を与える。しかし、被害が出ても電力会社は補償することができないし、そもそも全額を支払うことなど考えてもいないだろう。これは何を意味して言えるか、というと、原発のコストが、この「まさかのときに踏み倒される補償費」の分だけ安くなる、ということである。

このコストは、もしも市場が機能していれば、事故が起こったときに支払われる保険の「保険料」という形で具体的に示すことができる。しかし、対人・対物無制限で、狭い範囲に人や資産が集中している日本のような国では、この保険料は膨大な金額、おそらく、原発一基につき最低でも年間数千億円になることだろう。

コストが低ければ、電力会社は、本来保有すべき数以上に、過剰に原発保有することになる。日本にも多数の原発が存在し、稼働している。しかし、日本にとって望ましい原発の数は、0(ゼロ)だったのではないだろうか。年間数千億円の保険料も支払ってペイする原発など、存在しないからである。

とは言うものの、今回、事故が起こってしまった。この原発の事故処理には、上の外部性とは別の問題が生じてくる。すなわち、決定の歪みの問題である。事故処理で重要なのは、だれが、どのような基準で判断し、決定をするか、ということである。決定する者によっては、必ずしも望ましい決定が行なわれるわけではない。以下では、決定の歪みがどのように起こるかを、非常に単純化した例で考えてる。(あくまで「例」であるので、損失額などは現実とは違った値である。)

いま、原発に事故が起こったとしよう。そして、技術的に次の2つの手段があるものとしよう。

(選択1)事故直後、ただちに安全に廃炉にする・・・国民の損失:  0 円、電力会社の損失:10兆円
(選択2)修理を試みる


上で、(選択1)を選択すると、原発は使用不能になり、会社に10兆円の損失が生じる。しかし、女川原発のように、国民には被害は無い。一方、(選択2)を選択すると、次の2つの場合が確率的に起こりえる。

(A)修理に成功する(確率 P) ・・・国民の損失:   0円、電力会社の損失:  0円
(B)修理に失敗する(確率 1 − P)・・・国民の損失:  200兆円、電力会社の損失: 20兆円

つまり、修理に成功すれば損失は免れるが、失敗した場合、(1)を選択した場合よりも格段に大きな損失が、国民と電力会社の両方に発生する。

さて、この状況で、廃炉(選択1)と修理(選択2)のどちらを選択すべきだろうか。まず、電力会社の選択を考えてみる。ここで、電力会社は期待損失(予想される損失の平均値)を最小にするように行動する、と仮定する。すると、廃炉を選択(選択1)したときの期待損失は10兆円であり、修理を選択(選択2)したときの期待損失は

P x 0 + (1 − P) x 20兆 = (1 − P)20兆

となる。したがって、修理に成功する確率 P が50%以上であれば修理(選択1)を選択し、それ以下であれば廃炉(選択2)を選択することになる。

次に、政府が国民の期待損失を最小にするように行動する場合を考えてみよう。このとき、廃炉を選択(選択1)したときには、期待損失は 0 であり、修理を選択(選択2)したときの期待損失は


P x 0 + (1 − P) x 200兆 = (1 − P)200兆

となる。したがって、修理に成功する確率 P が 100%、つまり、修理に成功することが確実なとき以外は、必ず廃炉(選択1)を選択することになる。

このように見ていくと、「だれが決定するのか」が非常に重要であることが分かる。ここで考えた例では、政府が決定するときには「ただちに廃炉」を選択し、国民の安全を図ることになるが、電力会社に決定させると、国民にとっては危ない橋を渡りたがる傾向があることが示されている。

さて、ここまでは常識の範囲内だろう。しかし、もっと恐ろしいことがある。それは「電力会社の決定は経営陣によって行なわれる」ということである。実は、電力会社の利害と経営陣の利害は必ずしも一致しない。いま、次のような場合を考えてみよう。

(選択1)ただちに廃炉にする・・・経営陣の損失:10億円

(選択2)
(A)修理に成功する(確率 P) ・・・経営陣の損失:  0円
(B)修理に失敗する(確率 1 − P)・・・経営陣の損失: 10億円

これは、原発が修理できれば経営陣は安泰だが、廃炉になったり修理に失敗するとクビになってしまう。そして、クビになったら、電力会社がどれだけ損をしようと、自分たちの損失は一定(10億円)である、という場合である。

このとき、最適な経営陣の判断は、どれだけ修理に成功する確率 P が低くても、廃炉ではなく修理(選択2)を選択する、ということになる。国民がどれだけ被害を蒙ろうと、会社がどれだけ被害を蒙ろうと、知ったことではない、という行動をとるのである。

結論として、今回のような事故では、政府が国民第一を考えて事故処理の判断をすべきであり、経営陣に判断を委ねてはいけない、ということになる。もっとも、政府が、経営陣と同様の判断基準をもって行動している(つまり、「修理に成功したら政権延命になるが、それ以外なら政権が崩壊する。政権延命を第一に考える。国民のことなど知ったことではない」ということ)としたら、論外であるが・・・

さてさて、どうなってしまうのであろうか。