コメは日本の心か?

記紀神話に「豊葦原の瑞穂の国」という表現があるように、我々は米の飯にたいする思い入れが強い。米の飯は主食と見做される。そして、大多数の日本人は米への思い入れを次のように語るだろう。

日本食の中心は米の飯だ。日の丸弁当を見よ。米の飯と梅干ではないか。これこそ日本食の基本中の基本だ。」

しかし、この思い入れは幻想ではないだろうか?

日本の食事のメインは、本来、魚と野菜だ。例えばナベを囲んでの食事を考えてみよう。土鍋に魚と野菜が入る。これを食べて満腹する。もしも満腹にならない場合は雑炊などを食べる。料亭の食事でも同様である。刺身や煮物など、いろいろな料理を食べた後に、最後になってやっとご飯が出てくる。

つまり、日本の食事は、魚介や野菜などを食べるのが本筋であり、それで満腹しない場合の付け足しとしてコメの飯を食べるのである。

この見方にたいして次のような反論があるだろう。

「上のような食事はゴチソウであり、普段はご飯をメインにしている。」

確かに、ご飯をメインに食べる人は多い。学生などはどんぶり飯を食べる。しかし、ご飯をたくさん食べるのは、「貧しいからご飯で腹を膨らませている」ということにすぎない。当たり前だが、食べるおかずが多くなれば、それに合わせてご飯は少なくなるのである。

この見方に対し、次のような反論があるかもしれない。

「腹を膨らませるのだったら、小麦もイモもあるではないか。我々は米を食べているのだ。」

その通り。我々は主にコメを食べている。たくさん食べている。ただし、コメと言っても、白米の飯だ。白米ではなく玄米ならば、そうそうは食べられないし、第一、玄米は白米よりも不味い。玄米ご飯よりはイモの方が好き、という人も多いだろう。日本の普段の食事は、コメで成り立っているのではない。白米でなりたっているのだ。

白米だろうと玄米だろうと、同じコメである。しかし、白米と玄米は、全く性質が異なる食べ物なのだ。何が違うのか、というと、玄米のご飯が「野菜」であるのにたいし、白米のご飯は「菓子」に該当するのである。

いま、ステーキと野菜とパン、という食事を考える。味付けは塩だけ。これでも結構美味いが、パンの代わりにシロップたっぷりのパンケーキにする。すなわち、

シロップたっぷりのパンケーキ、ステーキ、野菜

という食事である。実は、これはこれで結構美味いが、人間は甘いものが好きなので、どうしても「シロップたっぷりのパンケーキ」をたくさん食べる食事になる。そうすると口が甘くなるので、ステーキや野菜の塩味がきつくなる。もちろん、そんなにしょっぱいものはたくさん食べられないから、ステーキや野菜の量は減ることになる。すなわち、

シロップたっぷりのパンケーキ(大量)、ステーキと野菜(塩味きつめ、少量)

である。

言うまでもないが、我々が日常。食べている食事は、上の「シロップたっぷりのパンケーキ」を「白米のご飯」に置き換えたものである。白米のご飯中心の食事が、いかに異常な「食事」であるかが実感できよう。

白米が日常食として食べられるようになったのは、江戸時代からであり、決して古いものではない。それ以前は、雑穀やイモなどで腹を膨らませていた。なぜ、白米のご飯になってしまったのかというと、想像するに、美味かったから、であろう。子供はちゃんとした食事よりもお菓子を好む。それと同様に、ちゃんとした玄米よりも、お菓子のような白米を食べるようになったのだろう。

このようにして考えると、白米のご飯中心の食事、というものは、日本の伝統とは異質の、都市の病理、とでも言うべきものであるように思われる。

そろそろ、コメ史観を脱却してもよいのではないだろうか。